2017-07-07 ダメと言われる事で正しくなる表現について

少年ジャンプの巻頭のエロ表現がいいか悪いかで議論が起きているようです。

似たような問題は昔から繰り返しあり、過去に僕はこんな記事を書きました。
記事の中で、僕は『自分がもしいつか子供の親になったとき〜』と書きましたが、現在僕は二人の娘の父親です。そして基本的な考えは当時と変わっていません。

僕は、表現というのは、それ単体で単純に善悪がはかれるものではないと思っています。
暴力的な表現を見たら暴力的になってしまうとか、子供でも人間はそんなに単純ではないです。

人がある表現からどのような影響を受けるか、何を学ぶかは、人がその表現にどのような形で接するのか、その表現が社会の中でどのような文脈に置かれているのかによって変わるものです。
例えば、歩きながら本を読む二宮金次郎の姿は、ある時代には勤勉の見本、という文脈に置かれ、その振る舞いを見習え、と教えられましたが、現在は歩きスマホを誘発する危険な行為で、やってはいけない事、という文脈に置かれて、銅像が撤去されたりしています。

タマゴ( •~•)こと、うちの長女が幼稚園に通い出して、ほどなく『うんち』とか、まあ色々と下品な言葉を覚えて帰ってきました。漫画はまだ読みませんが、テレビで見た事などもすぐに真似て、クレヨンしんちゃんを最初に見せた時は、やはり大喜びでお尻を出したがったりしました(すぐドラえもんに興味が移ってくれてよかった)。幼稚園にタマゴ( •~•)を迎えに行くと「うんちうんちおしっこパパ!」などと叫びます。それが他の子に伝播して、今では他の園児からも「あ、うんちくんだ!」などと呼ばれます。困ったものです。

などど書くと『やっぱり子供は表現からすぐ影響を受けるじゃないか!』と考えてしまう人もいると思うのですが、子供はちゃんと『うんち』という言葉に対して周囲の大人がどういう態度をとるかを観察して、うんちという言葉と、その言葉がどのような文脈に置かれているかをセットで学習しているのです。
うちの娘が『うんちうんちおしっこパパ!』と叫ぶのは『構って欲しいのにパパが構ってくれない、困らせてやれ!』などと思っている時で、周りの園児が僕に『うんちくん』と言ってくるのは、僕がすぐ怒るタイプのおじさんか、いじっていいタイプかを見極めようとしているからです。ちゃんと『うんちは下品な言葉で大人は使っちゃいけないって言ってる』という事は分かっていて、分かった上で上手に使いこなしているのです。
ちなみに、僕はうんちくん呼ばわりに対して「ダメだよ〜」くらいの弱腰な受け答えをしたら完全にナメられてしまいました。もっと毅然とした態度で立ち向かうべきだったか……。

でも、もし下品な言葉を完全に禁止して無菌室のようにしてしまったら、子供は『うんちは下品で大人が使っちゃいけないって言ってる言葉』という事自体を学ぶ機会を失いますよね。

なので、ジャンプに子供に見せていいか迷うような表現があった時『こんな表現ケシカラン!』と怒る事自体は、僕はいい事だと思います。僕の子供達がジャンプを読む年齢になって、お色気表現とか、ちょっと女性を軽んじているように見える表現とか、過激な暴力表現とかがあったら、僕もその過激さに合わせて適度に『ケシカラン!』と言うつもりでいます。そうする事で、子供はそれらの表現が自分が暮らす社会の中でどのような文脈に置かれているものなのかを学べるでしょう。そして僕は表面上は怒って見せながら、そういう表現が存在できる社会に感謝します。

良いものを良い、と教えるのと同じくらい悪いものを悪い、と教える事は大事です。悪いものは現実には無いに越した事はないので、実在しない架空の表現によって、悪いものを悪い、と教えられるのはとてもありがたい事です。

長々と書いてしまいましたが、今回の少年ジャンプのお色気表現に批判的な方々に言いたいのは、そう言った批判の空気とセットになって初めてこういう表現が子供にとって有益な学びの機会になるので、批判はいい事だけど、規制しろと言いだしたらそれは間違いですよ、という事です。
逆に、容認派の人たちに言いたいのは、批判の声があって初めてあるべき文脈に置かれて許される表現なので、批判の声に感謝するべきで、表現の自由を盾に批判の声を封じてしまったら、それもまた間違いですよ、という事です。

仲よくけんかしましょう。

こういう『間違ってると言われるならば正しい。だが正しいと思った瞬間間違いになってしまう』という概念にわかりやすい名前をつけて、表現の自由を盾に押し切るのではなく、この概念を拠り所にして、こういう表現が怒られながら存在できる社会を維持してゆけるといいのですが。

2017-07-09追記 『規制すべきでない』の規制は、『表現ができなくなるような規制はするべきではない』と言う意味です。

 

2017-07-07 ダメと言われる事で正しくなる表現について」への12件のフィードバック

  1. 記事読まさせて貰いました。
    私も常々、創作物の表現に関してはちょっと品性を欠いてはいるが、規制するほどなのか?と疑問に思うことがあります。
    その答えの一つが見つかったようなそんな気持ちです。

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  2. ジャンプのやつの問題は、裸にされて股を開いた女性が嬉し恥ずかしい表情をしてると言う点。
    女性はこれをされたら嬉しいんだ、と勘違いしませんか?子供は純粋故に疑いません。そして読むものを親が全てチェックはできませんよね。
    AVのレイプもので、レイプされている女性が気持ちよがる表現は、今まで1度も性交渉をしたことが無い男性が見たら、勘違いを助長し犯罪を助長すると思いませんか?
    ヘイトスピーチは表現の自由の範囲外ですよね。公共の福祉に反する表現は、規制されて当然だとおもいます。

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    • コメントありがとうございます。まさにそのような表現に対して、こう言った批判の声が上がる事で、そのような表現にも、子供が善悪を学ぶ際に一定のプラスの効果が生まれる、という趣旨の文章ですので、こう言った批判があるのはとてもいい事だと思います。

      ご質問の点については、本文で説明したつもりだったのですが、例えばAVの話については、やはりそう言った表現に対して現実はそうではない、という批判の声があり、結果として、AVで描かれているような行為は現実離れしていて女性を傷つけるだけ、という事が割と常識として知られるようになってきたのではないかと思います。だから本文で、表現者は批判の声にもっと感謝するべきだし、表現の自由を盾に批判を封殺しようとしてはいけない、と書いています。

      子供は純粋だから疑わない、というのは、実際子供を育ててみてちょっと違うかなと思います。本文中の、うんちの話(下品ですみません)でも書きましたが、3歳児でも大人たちの顔色を見ながら、下品な言葉とセットで、いつの間にかそれが下品な言葉で大人が良くないものと思っている、という事もしっかり学んでうまく使いこなしています。

      表現の一つ一つを100%親がチェックする必要はないと思いますよ。表現は意識的に触れるもので、文脈は無意識的に身につけるものなので、文脈の学習は実感を伴わないぶん、きちんと学べているか不安になると思うのですが、現実には世間の空気から、文字どおり呼吸するように学び取るものです。自分自身の事を思い返していただけるといいと思うのですが、自分がこれまでに触れた全ての表現を親が検閲して善悪を教えてくれたわけではなく、普通の生活の中で、いつのまにか、なんとなく自然に分別を身につけたのではないでしょうか?ほぼ全ての人が(100%完璧に、ではないですが)そのように無意識的に自分が暮らす社会の空気からいつのまにか分別を身につけられるから、我々は社会を作って一緒に暮らせているのだと思います。もちろんそれができるのは学校や家庭や社会がケシカラン表現に『ケシカラン!』と声をあげ、社会に正しい文脈を張り巡らせてくれているからですが。

      ヘイトスピーチについてですが、僕は表現者ですが、表現の自由が全ての権利に優先するとは考えていません。特定の個人や団体を明確に中傷するような表現は、それが違法であれば、法で裁かれるべきだと思います。当たり前ですが。ただ、これはちょっと記事の趣旨からは外れてしまう問題で、ここで一緒くたに論じるべきではないと思いますので、また別の機会に。

      長々とすみません。

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  3. 規制すべきではない、というのはゾーニングまで含んでのことでしょうか?
    また表現の効果が単純ではないように、教育の効果も単純ではありません。親が叱ったとしても、でも結局は普通に流通している表現なのだから、世間では許されるんだろうと受け取る子供もいるでしょう。

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    • 失礼しました。規制は曖昧な言い方でしたね。表現できないようにするような帰省はするべきではない、と言う意味で書きました。個人的には、ゾーニングはその表現がどのような文脈に置かれるものなのかをわかりやすくすると言う点ではいいのではないかと思います。
      子供が成人するまでに学びを得る場と機会は、ものすごく数多くあるわけで、特定の雑誌の数ページが与える影響はそれと比較するとあまりに小さく、でもその小さな影響の積み重ねが人格や価値観を形成してゆくのだと思います。いい学びが得られる事もうまくいかない事も無数にあって、結局平均化されて、我々は社会を形成できる程度には似通った価値観を持つに至るわけです。今回の1表現とその批判が作り出す文脈に触れて、『これはケシカランものなのか』と思う子供も『これくらいはいいのかも』と思う子供も、いていいと思います。そう言う体験が無数に積み重なって、分別とか常識を形成してくれればいいので。それでも批判の声があったほうがいいと思うのは、ほんのわずかな影響でも、良い学びを得られる確率が上がるからです。

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  4. ずっとモヤモヤと思ってきた考え方を、明示して下さった気がします。
    ありがとうございます。

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  5. AVのような表現は女性を傷つける事に繋がる。とありますが、僕はそうは思いません。
    AVを見続けて十数年経ちますが、現実の女性で自分を満たすだけの性的消費をしようと思った事はないし、それは相手に失礼であり互いの関係を悪化させるだけだと理解しています。女性も楽しめるプレイでしか性交はしません。
    一方で、女性がおぞましいと思うだろうAVや成年向け漫画で吐精もします。僕は確かにそれで擬似的に性的興奮が起き、生理現象を越えて健康に生活ができるからです。
    男は数日に一回吐精しなければいけないように体ができています。本来は実際の女性相手にそれがなされるように体が作られている訳ですが、倫理や法や社会によってそうはせず、皆、擬似的な代理品で吐精し理性的に生きている訳です。
    女性が女性の好みで男性の好みを禁じては、女性が好まない性癖を持った男性が生理現象を越える事がストレスになり、健康な生活が損なわれていく訳です。
    表現の自由、と言うと軽く見えてぼやけてしまいますが、好みの自由、思想の自由です。それを廃して表現を全ての人間が健全だと思う物に限定するのは、いずれ女性側の思想の自由を縛る事にも繋がるでしょう。
    女性が好む表現で、男性側から見て目に入るだけで嫌悪感を催すような物は多くあります。実際、その表現で男性を消費するような思想を抱く女性はいるでしょう。ですが、僕はそれの消費者でも購入者でもないので無視しています。それを規制しては、女性側から好みの自由、思想の自由を奪い、男性目線で女性の思想を管理する事になるからです。
    例えばよく声が上がる、破廉恥な事をされて女性が喜んでいるように見える表現を規制する。同時に海外で言われる、破廉恥な事をされて女性が嫌がるように見える表現を規制する。そうして男性から好みの自由を奪い、女性の為の性表現のみを与える社会はひどく歪な管理社会であり、男性を女性と社会の為の機械として見る事に繋がると思います。
    要は、実際する人間相手に向けなければいいのです。それは性表現だけでなく他のあらゆる犯罪やインモラルな行為も同じです。

    ついでに言えば、子供からセクシーな漫画を取り上げても男子は絶対に吐精をしなければなりません。健康に生きていれば精通したら性欲が消える事はないのです。
    極端に言えば、性的な知識が一切ない状態で子供が育てば、子供は勝手に子作りをするようになります。人間の体は動物の理から外れてないからです。
    家の中に無ければ家の外で、性的興奮を促す何かを探さなければいけないのです。
    実際のクラスメイトにそれを向けずに、少年誌の局部が隠れた下着のみのお色気シーンでそれを満たすのは、むしろ親から見ても健康な事だと僕は思ってます。と言うより、クラスメイトに向かずに少年誌で満足している時点で理性は働いていると言えますし、少年誌はその役目を果たしていると言えます。
    何をしてはいけないかを考えさせるのは表現ではなく教育です。倫理と法を教えるのです。

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  6. そうは言っても結局、ポルノや性風俗産業をこの世から撲滅することなんて不可能ですよね。
    人類、特に男性がいる限り、性欲に関したビジネスって永久に消し去ることはできないと思います。
    どんなに綺麗事で言い繕っても、週刊少年ジャンプやマガジンといった少年誌に
    性描写やエロを含んだ漫画があるのは、読者の彼らが将来性欲に満ちた男性に育つ過程にあるからで、
    精通前、あるいは精通後の童貞少年たちの読みたい、そういうものを観たいという性的欲求、ニーズが潜在的にあるからです。
    つまりエロ本未満、18歳以下の子たちが、18歳以上の大人になる前の少年期に、
    堂々とレンタルでアダルトビデオを借りたりコンビニでエロ本をまだ買えない年齢の少年時代の代換品として、
    予行練習として漫画で性に触れてるわけです。

    私自身も正直言って、萌えアニメとか日常系作品の美少女で癒しとかが大嫌いです。
    今の日本がおかしくなった理由の一つとして、アニメや漫画にしろアイドルにしろ
    可愛い女の子をただぼーっと眺めて思考停止する、みたいなオタクが増えすぎたせいもあるんじゃないかな、
    という疑いが個人的意見としてあるからです。
    (ツイッターで美少女系のアニメアイコン使ってる人にヤバい人率が高いのもその理由)

    でも規制しろ、とまでは思いません。
    例えば私はブロッコリーが大っ嫌いで、茹でてマヨネーズかけて食おうが、どう調理しても美味しいと思えたことがありませんが、それは自分の味覚と好みがブロッコリーに合わないだけで、
    世の中にどこかには肉や魚よりブロッコリーが好きだ!って人もいるでしょう。
    ブロッコリーの栽培を止めろ!出荷するな、八百屋に置くな!とか言ったら
    世の中のどこかの他の誰かの人生の楽しみを奪うことになるかもしれません。
    私は自由主義者なので、「自分に合わないもの、気に入らないものをこの世からなくせ」と主張する人たちの独善にはもっと賛同できません。

    さっき私はアイドルとか美少女ものは思考停止を誘うから苦手だ、と書きましたが
    そんな私でも実は今アイドルの「欅坂46」にハマり中です。理由は彼女たちの楽曲が
    「考えさせる曲、笑顔や媚びを見せずに突き放して萌えや癒しを与えない、既存の美少女ビジネスへのカウンター」だからです。

    エロが気に入らない、ジャンプにあんなもの載せるな、そう思う人たちは
    じゃあカウンターで「自分ならもっとこういうものを書きたい、ジャンプに載せたい」
    と思うものを世の中に率先して発表してけばいいんですよ。エロ漫画が苦手で嫌いだ、世の中に悪影響だ、
    そう思うんだったら、エロ漫画に対するカウンター、アンチは作品、芸術で示せばいい。
    ニルヴァーナのカート・コバーンが、商業的なヘヴィ・メタルの流行が大っ嫌いで、
    でもそれを言葉でだけ示したんじゃなくて、自分の曲でカウンターを放って
    ロック、パンクの核心は反体制、反権威だ、金儲け主義の流行に乗ってるだけのヘヴィ・メタルはクソだ、と音楽で叫んだのと同じです。
    機動戦士ガンダムや無敵超人ザンボット3なんかも、既存のテレビロボットアニメへのカウンターから誕生した革新的作品でしたよね。
    同じジャンプで言うなら、ジョジョの奇妙な冒険やハンター×ハンターなんかも
    ドラゴンボール的なジャンプの王道バトル漫画へのカウンターから誕生した名作なはず。

    それに対して、これがエンタメの王道だ、みんなが求めるもの、売れ線を書いて何が悪い!、と
    カウンターに対するカウンターを喰らわすのもまた自由だし、そうやって漫画なりアニメなり音楽なりを
    対立する思想同士のぶつかり合いで盛り上げていくべきだと思います。

    それが表現の自由ってことだし、クレームで誰か一部の人間の主観や価値基準で
    表現の自由の幅を狭めて、主張や価値観を一本化させてみんな一律同じで無個性させていくことは、
    日本の自由主義にとっても自殺行為だし、経済に対しても悪影響である、と思います。
    自由のない共産主義とか、行き過ぎた社会主義や全体主義と変わらなくなっちゃうし、
    同じような価値観や内容が書いてあるだけの、毒にも薬にもならない教科書通りの似たような製品だらけの世の中になっちゃう。

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  7. コメントでのやりとり含め、記事を拝見しました。
    投稿主さんが書かれた内容についておおよそ同じような意見・考えを持っていました。改めて善悪とは何か、自由と表現とは何なのかについては考えていくべきだとは思います。

    自分がこれから不安に感じる点があるとすれば、今の社会でのこういった話題についての取り扱われ方でしょうか。
    ・悪と思われるものは規制するべき、と言った声の方が大きく発信される状態があること(コメントまで含めて見ることで初めて様々な意見が見える様になってくると思います)
    ・極端な規制か擁護(表現の自由)かの0と1のみの意見がぶつかった時にきっちり話し合いのやり取りをした後、お互いが許容できる妥協点に落ち着くことが出来るのか
    ・上記のそれらを考えて自分の考えをしっかり出せる子どもを今の社会や環境、そして大人はそういったことを教えることが出来ているのか
    この3点が不安だなー、と見て考えた結果、こういった意見に落ち着きました。

    自分でもうまく言いたいことをまとめられたか自信がありませんが、長文、駄文失礼しました。

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  8. セクシャルハラスメントについて、極端に言うとセクハラされた人がセクハラされたって気がつかないことがあるくらい日本の社会に自然に存在しているという印象を持っています。
    さらに何か意見をした人はネット上で口汚く罵られています。
    現実でも「可愛くない」「ひがんでる」みたいに扱われることあるんじゃないでしょうか。
    そんな状況を見たら、我慢しようと思ったり、時にはそちら側に迎合してしまう人だっているかもしれません。
    「うんち」って言ったら恥ずかしいって学ぶのと同じようにはうまくいかないと思います。そんな力はいまの日本社会には無いと思います。

    それに話し合いのできなさです。
    「エロ」がダメって言ってるんじゃなくて「ハラスメント」がダメだって言ってるのに、エロを規制しようとしてるとして反論してくる人の多さに頭が痛くなります。
    「自分たちもそういう漫画を読んで育ってきた」という人もいますが、説得力ないどころかやっぱり有害?って感じです。
    作品の送り手側の人も表現規制に敏感になりすぎているのか、「言いがかり」をつけられた被害者みたいな立ち位置から一歩も動かない人は不誠実だと感じます。

    社会全体の人権意識を何とかして欲しいです。
    いま困っている人がいるっていうことをわかって欲しいです。

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    • コメントありがとうございます。

      まず、現実の場での生身の人間に対するハラスメント行為と、絵でそういった状況が描かれている、と言う事は問題のレベルが違うので、切り分けて考えた方がいいように思います。
      セクハラする人に対する怒りや、それに意見する人に対して口汚く罵ってくる人、に対する怒りが、直接その対象に向かわず、ズルズルと横滑りして漫画の描き手に向かってしまっているように読めます。
      ルパンの作者を大泥棒呼ばわりするのが間違っているのと同じくらい、今回のジャンプの絵と現実のセクハラ問題を混同するのは間違っていると思います。

      『絵で表現する事が何らかの形で現実のハラスメントに加担している』とお考えなのかもしれませんが、この記事での僕の論旨は、何か社会通念上悪いとされる表現は、それに対する批判と
      セットになって、『ああ、これは悪い事なんだな』と言う価値観を生ぶ教材になりうる、と言う事です。逆に、よくない事を表現できなくしてしまうと、それが良くない事だ、と言う問題提起
      の機会がなくなり、人から学びの機会を奪う事になります。

      漫画のような表現物によって描かれた『よくないもの』の良い点は、『もしここに描かれているような事が現実に起きたら』と言う仮定を元に批判を行う事で
      現実の被害を伴わずに学びの機会を作り出せる事だと思います。

      『セクハラ的な絵を見た人間はセクハラ人間になる』と言うように短絡的に考えるのではなく、そう言う表現が、今、現実に『これはハラスメントではないか』と言う議論を生んで、
      表現の良し悪しの区分けを進化させ、現実の場にその文脈を定着させていっている、と考えるべきで、同時に描き手はその事を理解し、表現の自由を盾に批判を封殺するような事なく、
      ちゃんと怒られなければいけない、と言うのがこの記事で僕が言いたかった事です。

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  9. たとえば、
    「日本人が苦痛にさいなまれる姿が “見ていて楽しいもの” としてその国の人々に消費されている」
    という国があったとして、「その国でしばらく暮らしてね」と言われたら、私を含む多くの日本人は不安や恐怖を覚えると思います。
    まして、その国では日本人へのいじめ、日本人を狙った犯罪事件が毎日のように報道されていたら…。

    その場合、「仲よくけんかしましょう。」で済むのですかね。

    “日本人虐待コンテンツ” を真似した子どもが日本人をいじめる → 大人が「それはいけないことだよ」と諭す → いじめっこが反省する

    それでめでたしめでたしでしょうか?
    子どもが「有益な学びの機会」を得る過程で被害者が生まれる。それは「仕方のないこと」ですか?
    “コンテンツ内での描写を大人が批判する” ことによってではなく、そもそも“そのコンテンツ内で”
    「それは被害者にとっては楽しいことではない。特に、容易に加害者になれる人間が楽しんで良いことではない」
    と描写するわけにはいかないのでしょうか?

    今回矢面に立たされた「ゆらぎ」にしても、そのほか多くの男性向けエロコメにしても、作中の女性キャラの「羞恥」=「苦痛」はとても軽く扱われていますよね。

    エロハプニングは「二度と起こってはならない辛く悲しい事件」として描かれてはいませんし、たびたびエロハプニングに遭う女性キャラたちは、そのことでノイローゼになったりPTSDになったりはしていないと思います。
    そんな描写を入れたら読者が「楽しめない」からですね。
    逆に言えば、そのような描写をしないのは「女性の羞恥=苦痛を見て気兼ねなく楽しんでください」という作品からのメッセージになります。

    >それらの表現が自分が暮らす社会の中でどのような文脈に置かれているものなのか

    「それ」を子どもに教えるのは、親や身近にいる大人だけではありません。

    作品そのものだって、「それが社会の中で置かれている文脈」を示すものの一つなのです。
    それがメジャー少年誌掲載の作品ともなれば、今回の件ですと「女性の苦痛を眺めて楽しむことは問題ない行為ですよ!」と、少年読者に対して多くの大人たちが「お墨付き」を与えたしまったに等しいのです。

    いじめを楽しいこととして描くわけにいかない。
    万引きを楽しいこととして描くわけにいかない。
    健常者が障害者の障害を馬鹿にすることを楽しいこととして描くわけにいかない。

    それなのに、どうして「女性の苦痛」は「男性への娯楽」として当然のように提供されているのか。

    今回の件で作品(というよりも、巻頭カラーをあえてあのようなものにした編集部の姿勢)を批判している人々は、その部分を疑問視しているように見受けらます。

    “こういう表現が怒られながら存在できる社会”
    は、被害者になりやすい属性である女性にとって、なかなか恐怖であると思います。
    (「こういう表現」というのが、「女性の苦痛を娯楽として消費することに肯定的・無批判な表現」を指すなら、ね)
    …現実問題として、こういう表現を怒ってるのってほぼ被害者(になりやすい)側であって、加害者(に容易になれる)側の多くは、問題意識を感じず作品を擁護しているわけですし。

    その状態を

    >(世の大人たちが)社会に正しい文脈を張り巡らせてくれている

    とするのは、あまりに楽観的であると思うのですよ。
    もっぱら加害に恐怖する側がその表現を批判し、そうでない側はその表現を擁護している。
    その状態から生まれる「その表現が置かれている社会的文脈」は、被害を防ぐ方向へ向かうものになるでしょうか?

    >ゾーニングはその表現がどのような文脈に置かれるものなのかをわかりやすくする

    に関してはまったく同意です。

    私も国家権力による表現規制には断固反対の立場なので、今回問題となったような表現は、少なくとも少年誌では描かれないようゾーニングすべきであると思います。

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